『ブレードランナー 2049』感想とイラスト 絶望に咲く希望

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映画『ブレードランナー 2049』ライアン・ゴズリングとアナ・デ・アルマスのイラスト(似顔絵)

誰もが期待よりも不安を抱えたであろうカルトSFの続編。心のどこかでその失敗を望む我々の目に飛び込んできたのは紛れもない『ブレードランナー』であり、ぶっちぎりのヴィルヌーヴ映画でもあったのだ!

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目次

『ブレードランナー 2049』感想とイラスト 絶望に咲く希望

  1. イラスト
  2. 作品データ
    1. 予告編動画
  3. 感想と評価/ネタバレ有
    1. とりあえず結論から
    2. 予習・復習忘れずに
    3. 答えなんてどうだっていい
    4. 本物とまがい物
    5. 人間もどきの自分探し
    6. 狂言回しへの凋落
    7. 明確化されていく真偽
    8. 絶望のなかにこそ咲く希望

作品データ

『ブレードランナー 2049』
Blade Runner 2049

  • 2017年/アメリカ/163分/PG12
  • 監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
  • 脚本:ハンプトン・ファンチャー/マイケル・グリーン
  • 撮影:ロジャー・ディーキンス
  • 音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ/ハンス・ジマー
  • 出演:ライアン・ゴズリング/ハリソン・フォード/アナ・デ・アルマス/シルヴィア・フークス/ロビン・ライト/ジャレッド・レト

参考 ブレードランナー 2049 – Wikipedia

予告編動画

感想と評価/ネタバレ有

西暦2049年。反逆レプリカントを「解任」するブレードランナーとして活動する“K”が、ある疑惑の捜査の過程で衝撃の事実へと接近していく姿を描いた、SF映画の金字塔『ブレードランナー』の35年ぶりとなる続編です。監督は『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ。

とりあえず結論から

映画ファンにとって観たいようで観たくない、期待を不安が押しつぶして内臓破裂させてしまう続編映画の筆頭格はやはり『ブレードランナー』ではなかろうか?それは監督とて同じことで、それに手を出すことは石を抱きて淵に入る自惚れ大バカ野郎と言わざるを得ません。

そんなデンジャラスミッションに果敢に挑んだのがドゥニ・ヴィルヌーヴ。これまで一度も凡打したことがない十割バッターもついに無様な空振り三振を喫する時が来たのか?なんてほくそ笑んでいたら、フラフラッと上がった打球がなんとそのままスタンドイン!

げに恐ろしきはドゥニ・ヴィルヌーヴ。カルトSFとして絶対的地位に君臨する『ブレードランナー』の世界観をきちんと継承しながら、さらにそれを押し広げ、そのうえで自分の映画へと昇華させ、前作以上のカルト道を突き進む一般客ほったらかしの哲学アート睡眠誘発映画。

莫大な制作費に対する北米でのコケっぷりがすでに報じられていましたが、んなもん当然でしょう。こんな映画が大ヒットしてしまう世界はきっと異常です。でも異常を愛するバカにはなんとも染みる、締めつけられる映画でもあるのです。眠いことに変わりはありませんが。

予習・復習忘れずに

眠気と駄作認定が必ずしもイコールではないことを証明したのはタルコフスキーでしょうか?まあ彼の作品をすべて観ているわけではないので偉そうなことは言えませんが、本作はかなりの部分でタルコフスキーの影響下にあると思われます。つまりはゲイジツとテツガク。

すでに足りない頭が痛くなってくるお題目ではありますが、さらなるハードルアップは前作を観ていないと皆目わからん映画だということ。まあ続編映画なので当然と言えば当然なのですが、きちんと予習・復習をしていないと記憶がどえらいことになるので皆さん忘れずに。

ついでに前作と本作の空白の30年間をつなぐ3つの短編動画も公開されておりまして、こちらもとりあえず視聴しておくのが無難かと思われます。特に『カウボーイビバップ』で知られる渡辺信一郎が担当した『ブレードランナー ブラックアウト 2022』は必見かと。

『ブレードランナー ブラックアウト 2022』

『2036:ネクサス・ドーン』

『2048:ノーウェア・トゥ・ラン』

答えなんてどうだっていい

前置きが長くなりましたがようやく本題。と言ってもたいしたことは書けないのですけどね。前作同様に基本となる物語にそれほどの複雑さは感じないのですが、そのさして複雑ではない物語をゲイジツ的かつテツガク的に深化さしている映像とテーマが只事ではないのです。

前作の難解さはバージョン違いの多さなどが示すように、多分に偶然性が高いとボクなんかは思っているのですけど、この『2049』に関してはもう明らかな確信犯です。前作の偶発的カルト性を利用して好き放題に遊んでやろうと目論んだ天才のけだるく憂鬱なおもちゃ箱です。

こんな暗喩だらけの映画を一度観ただけで理解しろと言われても、阿呆なボクには無理な話です。でも好き。たまらなく好き。その実たいしたことない物語を過剰なゲイジツとテツガクによって陰鬱にデコレートした壮大なハッタリが大好き。答えなんてどうだっていい。

ってのは言いすぎかもしれないけど、前作とはまた違う方向に振りきれた映像芸術という長い時間に拘束された睡魔を伴う迷宮体験は、それに内包された意味以上に刺激的で、刺さるのではなく静かに静かに沁み込んでくるのです。その前では答えなんてどうだっていい。

本物とまがい物

てなわけで、ゲイジツ的かつテツガク的な側面からこの映画を紐解き、より理解が深まるような解説や批評を当ブログに求められても「んなもん知らん。ほか当たってくれい」って話なわけで、うちはいつもどおり独断と偏見と直感をもって突っ走ってみたいと思います。

『ブレードランナー』といえば、人間とレプリカントとの戦いを通してその境界が曖昧になっていく過程を描き、自分とは、生命の定義とはなんなのかを観客に突きつけてくる映画だという認識で大筋異論はないかと思われます。では本作『2049』はどうなのでしょう?

本物とまがい物との境界を曖昧にしていった前作に対して、本作ではその境界をもういちどはっきり区別する試みがなされているように思えます。本物とまがい物とは違うのだと。それは本物であることを、特別であることを夢見たKの自分探しの顛末が如実に表しているかと。

人間もどきの自分探し

本物から差別されるまがい物であり、孤独であり、支配され、やりたくない汚れ仕事を押しつけられた、憂鬱で未来のない毎日。そんな彼を慰めてくれるのはホログラフィーである恋人のジョイ。レプリカントとホログラフィーの恋。ともに人間もどきの恋愛関係。

この関係のいびつさ、変態性、そしてそれを上回る純粋さとせつなさには、誰しもがなんとも言えない奇妙な憧れと憐れみの感情をもつことでしょう。男性諸氏は有り金はたいてでもジョイちゃんを購入したいと思うかもしれません。事実ボクは思いましたよ。

そんなジョイちゃんを唯一の心のよりどころに、同胞である旧式レプリカントを解任(要するに処分)する汚れ仕事を粛々とこなしていたKは、その過程で30年前にレプリカントによる出産というありえない事態が発生した事実へと突き当たり、彼の運命は大きく狂い始めます。

その事実の危険性を認識した上司から調査とともに隠蔽を命じられたKですが、自分に植えつけられた幼少期の記憶と合致する木彫りの馬を発見したことにより、暗く沈んだ彼の世界に一筋の光が射し込み、同時にさらなる闇が忍び寄るのです。自分は特別なのかもしれない。

自分は造られた存在ではなく、誰かの愛によって誕生した特別な存在なのではないかという希望、疑念、不安に取り憑かれた人間もどきの自分探しの旅。宗教、神話、父殺し、というよく見る嫌な予感が一瞬頭をもたげましたが、ヴィルヌーヴにそんな不安は無用なのでした。

狂言回しへの凋落

自分は奇跡の子なんだという夢を手に入れたKの、選ばれし者の恍惚と不安が最高潮に達した瞬間の急転直下、突然はしごを外して奈落の底へと突き落とし、岩まで投げつけてとどめを刺そうとしてくる超絶ヘビーな展開は、腰痛持ちを殺しにかかるヴィルヌーヴの面目躍如。

Kの記憶は確かに本物の記憶ではあるが、それは本当の奇跡の子である記憶デザイナーの身を守るために移植されたカモフラージュであり、Kは単なる偽者にすぎなかったのです。この事実を知らされたときのKの落胆ぶりは、かける言葉が見つからないほどの人生終わった感。

自分はまがい物で、特別ではない普通の存在で、なりたいものには永遠になれないというあまりに厳しすぎる現実。さらにはデッカードの登場により主観はあくまでKにあるものの、物語の中心はデッカードに奪われるという狂言回しの役割まで振られる踏んだり蹴ったり状態。

この『2049』は『ブレードランナー』の正当なる続編として、やはりデッカードとレイチェルの物語にちゃんとした落とし前をつけるのが狙いだったのです。デッカードとレイチェルの愛の逃避行の結末と、その果てに誕生した奇跡の子という希望の降臨。

Kはそのあいだをつなぐための中継ぎリリーバーにすぎなかったのです。

明確化されていく真偽

本物と偽物との区別化はほかにもあります。この映画の悪役であるウォレスは神になろうとした男です。レプリカントの命をもてあそび、世界を、宇宙を我が手にする。しかし、レプリカントの生殖能力すら完成させられていない時点で、彼が偽りの神なのは明白です。

そんなウォレスの寵愛を受けるラヴは、名前を与えられ、彼からの絶対的信頼をもって自分だけが唯一の天使なのだというアイデンティティをもっています。しかし彼女が信じる愛が単なる利用であり、支配であり、使い捨てであるのはまた変わらぬ事実。

そしてジョイ。ジョイとKとのあいだには確かに愛情らしきものが芽生えているように錯覚しますが、これとてまたプログラミングの結果であり、作られた愛、仕向けられた愛かもしれないわけで、その事実はジョイが単なる既製品にすぎない巨大化によって示されています。

この『2049』が前作と同じフィルム・ノワールなのだと考えると、ジョイとはもしかしたらKを破滅させるために接近したファム・ファタールなのかもしれません。同じくデッカードとレイチェルとのあいだに生まれた愛も、仕組まれたものである可能性が示唆されていました。

となると、サッパーたちが奇跡と呼んだデッカードとレイチェルのあいだに生まれた子、アナの存在すら偽りの奇跡かもしれなくなってくるのです。本物と偽物。真実と嘘。奇跡と現実。曖昧だったものがずいぶんと区別化されてきたのではなないでしょうか。

絶望のなかにこそ咲く希望

曖昧だったものを明確化するということは、本当は見たくなかった現実を直視させる厳しさであり、それは悲しいかな絶望へとつながるわけですが、絶望のなかにこそ希望が隠されているのは、これまでのヴィルヌーヴの作品を観てきた方ならご理解いただけるかと。

デッカードとレイチェルの恋愛がレプリカントの生殖のために仕組まれた実験だったとして、なぜあれから30年も経ったウォレスがそれを実現化できないのか?才能の面でも、技術の面でも当時よりはるかに優れているというのに。彼にはいったい何が足らないのか?

くっせ~ことを承知で言いますが、それがつまり「愛」なのだと思います。たとえデッカードとレイチェルの関係が意図的に仕組まれたものだとしても、そこに真実の愛が存在しなければ奇跡は起こりえない。まがい物のなかに真実が宿ることもあるのです。

それは哀れな狂言回しを押しつけられたKについても言えること。彼が見た夢、芽生えた愛、いだいた希望はもろくも崩れ去りましたが、そんな厳しい現実、絶望のなかにこそ彼を確立する希望があった。誰かに愛されることを望むのではなく、誰かのために何ができるのか?

誰からも望まれない存在であるがゆえ、誰かに求められ、愛されることを強く望み、特別な存在になることを夢見ていたK。そんな彼が大義のために死ぬのではなく、はからずも関係をもった誰かのために死ぬことを選択する。これは負け犬の最後のプライドなのかもしれません。

何者かを夢見た男が、何者にもなれないまま、ただ自分としての存在を全うし、雪を見ながら小さく笑う。絶望のなかでこそ咲くわずかな希望。これだけで十分だ。これだけでこの『ブレードランナー 2049』は傑作なのだとボクは思います。

個人的評価:8/10点

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コメント

  1. わるいノリス より:

    こんな寂しいゴズリングは見たくなかったけどヒロインが可愛すぎるからしょうがない。

    個人的に、前作は重要なワードとなる「目」とロイの最後のセリフにある「涙」を繋げ合わせた「雨」で話を包括した作品だったと思ってます。
    2049はドゥニ色をつけながらも、正当に発展させたシナリオを「雪」で包括して見せた。
    ロジャー・ディーキンスの映像美と合わさって続編としてだけでなく、芸術作品として何度も鑑賞に堪える素晴らしい出来だったと思います。

    それにしてもヒロインがかわいいんだよ・・・

    • スパイクロッド より:

      わるいノリスさん、コメントありがとうございます!

      確かにゴズリングはひたすら寂しくて悲しくて哀れなのですけど、そういう絶望に突き落とされたなかで自分を確立した最期に涙してしまいました。そしてジョイ!ジョイのかわいらしさはもう一家に一台置いときたいですよね!でもネタバレ感想のなかでもチラッと書きましたけど、結局のところ彼女はファム・ファタールではなかったかもしれないとボクは思っております。Kを特別だと焚きつけたのも彼女ですし。彼女の言動、Kへの愛情自体がすべて奇跡の子へと接近するためのプログラムではなかったかもしれないと。でもね、ほらもう、それにしてもかわいいからぁ~~~♥♥♥

  2. 通りすがり より:

    ラストシーンはブレードランナーでデッカードを助けて死んでいったロイの姿が思い起こされました。不条理な行動をする時点で魂のあるなし関わらず彼らは新人類な感じはしました

    • スパイクロッド より:

      通りすがりさん、コメントありがとうございます!

      Kの最期は明らかにロイの姿と重ね合わせてますよね。ともに偽物であるレプリカントとして死んだふたりですが、最後に自分らしく生きたことに変わりはありません。人間かそうでないかは問題ではなく、ただそれだけで彼らは独立した存在として解き放たれたのだと思います。

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