都合4度も映画化されたジャック・フィニイの『盗まれた街』。おそらく大多数の方がリメイク版しか観たことがないのでは?かくいうボクもそうでした。しかしすべてはこのドン・シーゲル版あってこそ。これを観なければ始まりません!
作品情報
『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』
Invasion of the Body Snatchers
- 1956年/アメリカ/80分
- 監督:ドン・シーゲル
- 原作:ジャック・フィニイ
- 脚本:ダニエル・メインウェアリング
- 撮影:エルスワース・フレデリックス
- 音楽:カーメン・ドラゴン
- 出演:ケヴィン・マッカーシー/ダナ・ウィンター/ラリー・ゲイツ/キング・ドノヴァン/キャロリン・ジョーンズ
参考 ボディ・スナッチャー/恐怖の街 – Wikipedia
解説
見知らぬ他人が、あなたの家族が、恋人が、そしてあなた自身が、いつの間にかサヤ人間に変わっているかもしれない恐怖を描いたSFスリラーです。原作はジャック・フィニイによる侵略SF小説『盗まれた街』。
監督は『ダーティハリー』のドン・シーゲル。主演は『セールスマンの死』のケヴィン・マッカーシー。共演に『再会』のダナ・ウィンター、『殺人地帯U・S・A』のラリー・ゲイツ、『悪魔の沼』のキャロリン・ジョーンズなど。
監督助手として『わらの犬』のサム・ペキンパーが弟子入りし、ガス屋のチャーリーとして出演も果たしております。脚本を担当したダニエル・メインウェアリングは赤狩りのブラックリスト掲載経験者。
あらすじ
ある夜、半狂乱の男が病院へと担ぎ込まれてくる。診察にあたった医師に対して自分も医者だと名乗った男の名はマイルズ(ケヴィン・マッカーシー)。彼は自分が体験した恐ろしい出来事を話し始める。
カリフォルニア州の小さな町サンタ・ミラ。そこで開業医を営んでいるマイルズは、患者が多数押しかけているとの連絡を受け、医師会を切り上げて数週間ぶりに町へと帰ってくる。しかしそこで彼が感じたのは奇妙な違和感だった。
いつもと変わらない町並み、人々のはずなのに、何かがおかしい。やがて自分の肉親が別人に変わってしまったと訴える者が複数現れ、言いしれぬ不安と疑念を感じたマイルズは調査を始めるのだったが……。
感想と評価/ネタバレ有
『ダーティハリー』や『突破口』で知られるB級アクションの巨匠ドン・シーゲルによる古典的SF侵略映画。日本では劇場未公開に終わり、DVDも廃盤、中古商品はプレミア価格。貧乏人にはおいそれと鑑賞がかなわない高嶺の花でありました。
それがこのたびお手頃価格の廉価盤として再リリースされたのです!知人友人親類存在しない恋人にこの歓喜の事実を伝えたところ、遠い目をされてしまったので、深夜にひとりでそっと神に祈り、震えながら購入、泣きながら鑑賞いたしました。
んなわけで、両の頬をつたう涙をぬぐいながらこの感想をしたためておる次第。とりあえず皆さまこの機会を逃すことなく購入することをおすすめしておきます。それではさっそく祈りと悪寒と涙の感想をば。
いつでも誰でも実存が不安
- 『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年・ドン・シーゲル)
- 『SF/ボディ・スナッチャー』(1978年・フィリップ・カウフマン)
- 『ボディ・スナッチャーズ』(1993年・アベル・フェラーラ)
- 『インベージョン』(2007年・オリヴァー・ヒルシュビーゲル)
都合4回も映画化されている大人気な『盗まれた街』。人気の理由は人間の実存を揺さぶる根源的な恐怖がこの物語にはあるからでしょう。見知らぬ他人が、よく知っている隣人が、家族が、そして自分が別の「何か」に変わってしまったかもしれない。
実存不安映画の傑作『バニー・レークは行方不明』とも通じる、世界と自分自身の存在に対する不安と恐怖。実はこの点に関しては後発のカウフマン版のほうが強烈なのですけど、これはシーゲル版のおいしいとこを現代的にアップデートさせたから。
舞台を都会に移し、妄想的色合いを濃くし、実存的不安をさらにあおってみせる。オリジナルを忠実になぞりながら見事にブラッシュアップさせた、珍しく優秀なリメイク作だったことがこれでわかりましたが、それもこれもシーゲル版あってこそ。
貧乏予算をものともしない、いや、金も時間もないからこそ余計な贅肉を極限までそぎ落とした無駄のないシャープな演出は、まさにドン・シーゲルの真骨頂!未見の方はぜひとも年代順に観ていくことをおすすめします。でないとあとで後悔するよ!
静かなる侵略計画
物語はとある病院に半狂乱の男が担ぎ込まれてくることから始まる。男の名はマイルズ・ベネル。彼が体験した奇妙で恐ろしい事件を精神科医に語っていく、回想形式で進行していくこの映画。男の頭は正常なのか?それとも狂っているのか?
前述しましたとおりこの実存不安については後発の『SF/ボディ・スナッチャー』に追い越されているものの、ストレートな異星人侵略ものとしてのスリルはけっして引けを取りません。いや、最初にこちらを観ていたらもっと小便ちびったことだろう。
一見すると前と変わらない町並み、人々に見えるのに、何かが、どこかがおかしい。姿かたち、記憶もそのままなのに、何か別の「モノ」に変わったとしか思えない家族や隣人。静かに、不気味に、しかし確実に進行していく正体不明の侵略作戦。
時代や予算の都合もあって派手な特撮は皆無です。普通の人間。普通の町並み。しかし違う。絶対におかしい!普通を普通ではなく演出してみせる、貧乏予算を逆手に取ったドン・シーゲルのB級職人的な腕の見せどころであります。
赤狩りへの怒り
侵略者の正体は宇宙からやって来た寄生植物のようなもので、巨大なサヤによってターゲットの複製を製造し、睡眠中に本体と入れ替わってしまうというもの。姿かたち、記憶はそのままだが、彼らサヤ人間には心がない。画一的な思想の統一。
これを反共主義のメタファー、当時のアメリカ社会を脅かしていたアカどもの台頭とつなぎ合わせる向きもあるようですが、個人的な所感としてはむしろ逆。反マッカーシズム、反赤狩りこそがこの作品の裏テーマなのではないでしょうか?
サヤ人間が象徴しているものは忍び寄る共産主義の影などではなく、そういう思想信条の自由を権力、密告、弾圧によってねじ伏せていく、多数派による少数派殲滅作戦の醜さ、愚かさ、そして恐怖にこそあるのだと思います。
友が、家族が、愛する人が自分を裏切り、安値で売り飛ばし、心まで奪い取ろうとしてくる地獄。シーゲルが、ペキンパーが、脚本のメインウェアリングが目撃、体験した現実に対するストレートな怒り。これがこの恐怖映画の原動力ではなかろうか。
偉大なるオリジナル
異星人侵略ものに赤狩りへの怒りを仮託したこの映画。あまりに無駄がなさすぎてやや説明不足ではあるものの、丁寧な親切さよりもテンポ抜群の緊張感を選択したシーゲルの正しさは、リメイク版と比較してみるとよくわかります。
カウフマン版の物語はほぼオリジナルを忠実に再現したものなのに、上映時間は35分も延びているのです。オリジナルのいい部分を拡大させたがゆえではありますが、やはり多少の間延び感はぬぐえない。それに比べてシーゲル版のなんと無駄のないことか!
確かに説明不足でわかりづらいところもある。しかし、それを補って余りある一気呵成のサヤ人間侵略劇の絶望感!見せない、描かないことによる恐怖。光と影の怪しい美しさ。眠ったら最後というボクにはとうてい耐えられそうにない拷問。
やはりドン・シーゲルは偉大なるB級映画の巨人だ。カウフマン版の面白さはその大部分をシーゲル版に頼っていたと言っても過言ではない。ああ~やっぱり順番どおりに観ておくべきだった。ここまで一緒だとは思わなかった。後悔先に立たず……。
ふたつのエンディング
そんなバカの後悔を一顧だにしない、後半の畳みかけるような怒涛の演出にはただひれ伏すのみ!地味だけど絶大な威力を誇る睡魔との闘い。寝落ちを我慢しながらの愛の逃避行。普通に見えるけど普通ではない大量のサヤ人間とのマラソン大会。
心を喪失させた無数の亡者どもに追いかけ回される恐怖と、ギリギリの緊張感。そんななか微かに聞こえてくる天使のような歌声。まだ人間に心は残っていた?と思わせたあとの奈落の底へのすってんころりん。なんという意地悪さだろうか。
ここでの愛する女性がついにサヤ人間へと変貌してしまったことが判明する瞬間の演出、編集の巧みさには怖気をふるいます。ストレートな愛の逃避行として描いてきただけにダメージは相当なのですけど、これぞシーゲルらしいニヒリズムなのです。
とうとうぼっちになってしまった主人公のハイウェイでの狂人扱い。当初シーゲルは「次はあなただ!」とマイルズが観客に向かって叫んで「The End」としたかったようなのですけど、プロデューサーから怒られて撮り直しになったらしいです。
というわけで、ひとりだけ生き残ったマイルズの訴えによりサヤ人間どもの陰謀が判明するという、やや救いを残した終幕となったわけですが、これとて未来は予測不可能なわけであり、観客に想像させる余地を残した見事な幕切れだったと思います。
シーゲルが当初望んだ終わり方は、カウフマンのリメイク版によってついに日の目を見ることとなります。そういう意味でもやはり製作年度順に観ていくことをおすすめしますが、「いまさら遅いよ~」というボクと同じ嘆き節が聞こえてきそうですな。
個人的評価:8/10点
コメント
私は今のところ、これしか観てないので、あとはリメイクを年代順に観ていければ最高です。
古臭いところはあったものの、おっしゃる通り”普通を普通ではなく演出してみせる”監督の技が光ってました。
赤狩りをモチーフにしているというのも納得で、人間いつ彼らのような”侵略者”になってしまうかわかりませんね~。
ラストは違和感あったので、監督の意向は違っていたとわかり納得です!
宵乃さんコメントありがとうございます!
おお!まずこのオリジナルから出発できるとは、うらやましいというか妬ましいというか、なんにせよ素晴らしいことですよ宵乃さん!この土台をもとに年代ごとにどのようなアレンジが加えられていったのか?そのうえでオリジナルとの比較ができるわけですからね。いや~うらやましい。というか妬ましい(笑)。ボクは我慢できずにカウフマン版に手を出してしまったので、ず~と後悔しっぱなしです(笑)。
おお!ついにオリジナルをごらんになられたのですね!
私も7月にこれを手に入れました。(ただし中古ですが…もう中古になっているのかと驚きました)
この作品との出会いは、かれこれ30年くらい前。
深夜に放送したのを録画したのをみました。
それから原作をかいました。(でも、このとき買ったのは引越しのとき
どかにいってしまいました。)
そして、その後時々リメイクされたのはすべてみました。
(2007年版は、なんと静岡でみました!そのとき、また原作を買いました)
今回、オリジナルを見て、1978年版はこれをベースにして
作ったんんだなと思いました。
そして、1978年版が一番気味が悪かったです。
(話の序盤から登場しているモブが全員なんか怪しくて不気味で…)
–でも、ドナルド=サザーランドが作る料理は美味しそうでした。
中華料理みたいでしたよね?–
ダムダム人さんコメントありがとうございます!
返信が遅くなってしまって申し訳ありません。
このたびブログをlivedoorからWordPressへと引っ越したことにより、いろいろとゴタゴタしておりましてこんなに遅くなってしまいました。誠に申し訳ありません!
しかしついこないだ発売されたばかりだと思っていたのに、もう中古が販売されているのですね。ボクもそちらで購入したほうが安くあがりましたな(笑)。
おっしゃるとおり不気味さという意味ではフィリップ・カウフマン版がいちばんかと思います。ホントにモブが怖いんですよね!普通なのか普通じゃないのかわからないのが怖い!
でもこのドン・シーゲル版も負けず劣らずの不気味さだったと思いますよ。まあ時代と予算もあってかなりチープではありますが、それを補って余りある傑作でした。
ドナルド・サザーランドが作る料理は確かにおいしそうでしたね。彼の彼女に対する控えめな想いも非常によかったと思います。このドン・シーゲル版はそのへんはかなりストレートでしたからね。
というわけでWordPressへと引っ越したこの「映画を観たからイラスト描いた」。しばらくは過去記事の修正やデザインの変更やなんやで、皆さまにご迷惑をかけるやもしれませぬが、これからも見捨てずに遊びに来てやってくださいね!