埋もれる才人ドン・シーゲルがテレビという器を自ら噛み砕いた傑作暴力映画。テレビ的メロドラマへと映画的暴力が介入し、やがてそれを喰い破って現出する虚無的俯瞰に括目せよ!
作品情報
『殺人者たち』
- 原題:The Killers
- 製作:1964年/アメリカ/93分
- 監督:ドナルド・シーゲル(ドン・シーゲル)
- 原作:アーネスト・ヘミングウェイ
- 脚本:ジーン・L・クーン
- 撮影:リチャード・L・ローリングス
- 音楽:ジョニー・ウィリアムズ(ジョン・ウィリアムズ)
- 出演:リー・マーヴィン/アンジー・ディキンソン/ジョン・カサヴェテス/クルー・ギャラガー/ロナルド・レーガン
解説
ある男の殺害を依頼された殺し屋ふたり。しかし、逃げも抵抗もせずにまるで殺されることを待っていたかのような男の態度に興味を覚えたふたりは、男の過去をさかのぼることによってある儲け話へと首を突っ込むことになるというクライムサスペンスです。
監督は『刑事マディガン』『突破口!』のドン・シーゲル。もともとはテレビ映画第1号として製作された本作ですが、当時としては過激すぎる暴力描写が問題となり、やむなく劇場公開されたという奇妙な逸話をもつ作品です。
主演は『特攻大作戦』『北国の帝王』のリー・マーヴィン。共演に『殺しの分け前/ポイント・ブランク』のアンジー・ディキンソン、『フューリー』のジョン・カサヴェテス、『バタリアン』のクルー・ギャラガーなど。
なお悪役ジャック・ブラウニングを演じるのは第40代アメリカ大統領ロナルド・レーガンその人であり、噂にたがわぬ大根芝居を披露してくれておりました。
感想と評価/ネタバレ多少
キングレコードさんの毎年恒例企画「死ぬまでにこれは観ろ!」2018年版にて大量買いしておいたBlu-rayのなかの一本、B級アクション職人ドン・シーゲルによる1964年の作品『殺人者たち』を今回は紹介してみたいと思います。
サム・ペキンパーやクリント・イーストウッドのお師匠様として知られる、安くて早くて上手いB級職人ドン・シーゲルの隠れた逸品。今回初鑑賞となりましたが、やっぱこの人の無駄がない余計なことをしないそのくせ的確な演出ってある意味芸術だよなぁと思った次第。
一分の隙もない幕開け
血の赤と冷めた青と深い黒で統一されたスチール写真の連続のバックで鳴り響く軽快なジャズ。シャープでクールな痺れるほどカッチョいいタイトルバックで幕を開ける本作。劇伴を担当したのはジョニー・ウィリアムズ。誰じゃろな?と思ったら若き日のジョン・ウィリアムズだってんだから凄い奴は昔から凄いのだ。
そして遠くを見つめる男のサングラスに映り込むリー・マーヴィンのゴリラ面ショットでいよいよ本編開始。っていうかここまでの1分30秒ですでに隙がない。まだ何もしていない、何も始まっていないのにこの隙のなさ。隙だらけの人生を送るボクには真似できない芸当よ。
物語はふたりの殺し屋(リー・マーヴィンとクルー・ギャラガー)が盲学校へと押し入り、そこの教師ジョニー(ジョン・カサヴェテス)を殺すところから始まる。しかしまったくの無抵抗だったジョニーの態度に疑念をいだいたふたりは彼の過去を探ることに。
かつてはレーサーとして名を馳せたジョニー。ある強盗事件に関与して100万ドルを持ち逃げしたという噂もある。その金はどうなったのか?ジョニーの殺しを依頼したのは誰なのか?彼の過去を探るうちに浮上してきたのはひとりの謎の女だった……ってのが簡単なあらすじ。
もともとはテレビムービー第1号として製作された本作だが、当時としてはあまりに過激な暴力描写によってやむなく劇場公開されたというのは解説で述べたとおり。しかしこの非情さ、殺伐とした暴力性が良いのだ。その暗い魅力はすでに冒頭でいかんなく発揮されております。
盲学校を舞台に情け容赦ないプロの殺し屋によって行われる電光石火の殺しの美学。リー・マーヴィンの有無を言わせぬ貫禄と、相棒であるクルー・ギャラガーの軽薄さとのコントラスト。必要な情報を得るために淡々かつ飄々と盲人受付女性に行使される暴力の切れ味。
無駄がない、余計なことをしない、そのくせ凝縮された豊潤さで残忍に一切の感傷を交えず的確に標的を撃ち抜く徹頭徹尾ドン・シーゲルなオープニング。痺れるなってのが無理な話だ。ドン・シーゲルのような男をテレビなんて小さい器で飼い慣らそうってのが無理な話だ。
才人の得手不得手
とまあシーゲルおじさんを持ち上げまくりましたが、実はこっからの展開はけっこう浮き沈みが激しいのだ。ジョニーの過去を探るために関係者への聞き取り調査というか脅迫を断行していく現代パートと、その証言による回想パートとの雲泥の緊張感。
映画の構成上、謎を残して死んだ男の秘められた過去を解き明かすという描写は確かに必要不可欠だが、正直このパートはかったるくて野暮ったい。成功を約束されていた男がひとりの妖艶な女との出会い、恋によって人生を踏み外していくというありきたりなメロドラマ。
ジョン・カサヴェテスとアンジー・ディキンソンという豪華な顔合わせによってなんとか観られる出来には仕上がっているが、やはりこの手の感傷はシーゲルの得意とするところではなかったのだろう。もともとテレビ用の企画だったという事情もその一端かもしれませんね。
ゴリラとニヤけの独壇場
名レーサーとして名を馳せながら、ファム・ファタール(運命の女)への執着によってその成功を失い、彼女の情夫とともに郵便強盗をやらかすまで堕ちた男。そんな男とともに消えたと噂される100万ドル。その金を狙って男の過去をしつこく冷酷に嗅ぎまわるふたりの殺し屋。
回想パートのやや締まりのないダルダル感は先述したとおりですが、そんな冗長なメロドラマの合間に映し出されるゴリラとヘラヘラによる静かな脅迫の緊張感はやはり只事ではありません。オラオラ系ではない詰め寄り方が逆に心底ヤバそうな暴力性を強調しているのだ。
どんな泣き落としも説得も通用しないであろう冷酷非道なプロフェッショナルぶりによって静かに相手を恫喝するリー・マーヴィンの圧倒的ゴリラ面と、健康オタクなマッチョ志向で目に映るものすべてを無軌道にもてあそぶクルー・ギャラガーの軽薄きわまりないニヤけ面。
剛と柔のコントラストを効かせた殺し屋コンビによって醸成させる冷ややかな暴力性に支配された脅迫空間。なんというか前時代的メロドラマに本来いるべきではない現実的暴力の執行者が闖入したかのような違和感がよくよく考えると強烈で、そういう意味では回想パートのダルダル感は意図的だったのかもしれない。
ジョニーの手垢にまみれたメロドラマがダルダルのユルユルであればあるほど、それを掘り返す殺し屋コンビのリアルな暴力性が際に際立ってヒリヒリするような緊張感と恐怖を現出させる。そしてそれはついにすべての謎を解き明かした瞬間、大爆発を起こすのだ。
クライマックスへの雪崩れ込み
ついに運命の女シーラ(アンジー・ディキンソン)へと辿り着いたふたり。そこで発揮される暴力の、本当の暴力の凄まじさ。現代の感覚で見ればただ男が女を殴っただけかもしれない。しかしそれが行われるタイミング、間合い、カメラワーク、突発性が尋常ではないのだ!
美しく、妖艶で、危険な魅力をまとった女。そんな女と終始ヘラヘラと会話していた男が突然立ち上がり、女をぶん殴る!女の頬に出来た痛々しい痣と垂れる鼻水。そんな彼女を冷酷に見下ろし、静かに立ち上がってホテルの窓を開けるリー・マーヴィン。
俺たちの聞きたい話はそんなことじゃない。放り出せ。男ふたりに抱え上げられてその身を窓から突き出されるディキンソン狂乱のカット、揺れる地面、鳴り響くジョン・ウィリアムズ緊迫のスコア、そして劇中初めて声を荒げて彼女に詰め寄るリー・マーヴィンのゴリラ面。
なんという凄まじい暴力性に支配された場、空気、緊張感であろうか!今の暴力映画とは一味違う真にリアルな暴力性が渦巻いておるがな!ここからすべての真相が明かされ、金に目がくらんだ亡者どもが一気呵成に破滅へと雪崩れ込むクライマックスはこれぞドン・シーゲル!
リー・マーヴィンのコケ芸もそのへんの大根どもではとても太刀打ちできない迫真のコケっぷり!吐き出される血の唾。白いシャツを染め上げる鮮烈なる赤。無造作に地面へと散らばる札束。指鉄砲。崩れ落ちる肉体。上昇するカメラ。俯瞰。そして「The End」。
なんという無駄のなさ!なんたる乾いた視点!これがもともとテレビ映画として撮られたとはにわかに信じがたい。あんがいドン・シーゲルは確信犯的にこれをやったのでは?テレビ的なメロドラマへと介入し、やがてはそれを異質な何かへと変貌させていく映画的破壊力。
金にのためにやったテレビの仕事。しかしそこは彼の居場所ではない。それはこの『殺人者たち』によって白日の下となり、とある西部劇スターとの出会いから『マンハッタン無宿』が生まれ、それはのちにあの『ダーティハリー』へとつながるというのはまた別の話。
個人的評価:7/10点
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