この世界の片隅で生きるゲイたちの、しばし現実を忘れた真夜中のパーティ。しかし夜は、狂躁は、部外者は、彼らの忘れていたい深層を残酷なまでにえぐり出す……。
作品情報
『真夜中のパーティー』
The Boys in the Band
- 1970年/アメリカ/120分
- 監督:ウィリアム・フリードキン
- 原作・脚本:マート・クロウリー
- 撮影:アーサー・J・オーニッツ
- 音楽:チャールズ・フォックス
- 出演:ケネス・ネルソン/フレデリック・コムズ/レオナルド・フレイ/クリフ・ゴーマン/ローレンス・ラッキンビル/キース・プレンティス/ルーベン・グリーン/ピーター・ホワイト/ロバート・ラ・トゥールノウ
解説
真夜中のニューヨーク。仲間の誕生パーティを祝うために集まったゲイたちのなかに、ひとりのストレートが混ざり込んだことによって表面化する彼らの本音を描き出した、同名舞台劇を映画化した社会派ドラマです。
監督は『クルージング』でもゲイ社会を描いたウィリアム・フリードキン。ハリウッドの歴史において初めて真正面からゲイを扱った作品として知られております。出演者は舞台版のオリジナルキャストが採用されており、数名を除いて実生活でもゲイだったとのこと。
感想と評価/ネタバレ有
前回紹介した『L.A.大捜査線/狼たちの街』に続く、ウィリアム・フリードキン監督作『真夜中のパーティー』。長らく日本では視聴困難な作品でしたが、先ごろようやくDVD&Blu-rayが発売され、ようやく初鑑賞の夢が叶いました。ありがとう復刻シネマライブラリー。
ただまあ映画自体の出来としましては、『フレンチ・コネクション』や『エクソシスト』でブレイクする前の作品ということもあり、やや粗削りというか、劇映画としての習作段階とも言える仕上がりで、過度の期待はしないほうが賢明かもしれませんね。
あの頃キミは若かった
ニューヨークのとあるアパート。家主であるマイケルの計らいで、ゲイ仲間のひとりであるハロルドの誕生パーティが開かれようとしていた。集まったのは7人のゲイと、ハロルドへのプレゼントとして雇われた男娼、そして突然の訪問者であるマイケルの旧友アラン。
偽らざる自分を解放できる場として、あくまでゲイだけの集まりとして開催されたパーティだっだが、そこに闖入してきたストレートであるアランの存在。彼の存在はやがてマイケルたちの深層に作用し、楽しかった真夜中のパーティは不穏な空気を漂わせ始めるのだった……。
もともとはオフ・ブロードウェイの舞台劇として人気を博していた本作。出演俳優たちもオリジナルキャストで構成されており、しかもそのほとんどが実際にゲイだったとのこと。ハリウッド映画史において真正面からゲイを題材とした初めての作品というわけです。
前述しましたとおり舞台劇の映画化である本作は、ほぼマイケルのアパートだけで物語が展開する当然ながら舞台的な演出であり、限られた空間でのドラマを飽きさせない工夫も随所でうかがえるのですが、正直なところ中盤まではでっかいテレビという印象です。
ゲイたちの赤裸々な会話劇が速射砲のように続く展開も疲れるうえに退屈で、テレビ、そしてドキュメンタリー畑出身でまだ劇映画としてのキャリアが浅かった、当時のフリードキンの未熟さもうかがえます。中盤までは残念ながらまだ映画になっていないという評価でしたね。
陰鬱密室サスペンス
そんな状況が一変するのはパーティの主役であるハロルドが登場してから。彼の初登場シーンはほとんどホラー映画と見紛うばかりの恐怖演出で、彼の存在がほかの登場人物たちに、そして映画自体に与える影響を示唆している劇的なまでの転換点です。
さらにはマイケルの学生時代の友人であるアランが、これがゲイの集まりだとは知らずに闖入してきたことによってあぶり出されていくそれぞれの深層。ここから映画は密室サスペンスとも呼べる暗く陰鬱な様相を呈してゆき、ついには映像までダークに様変わりしてしまいます。
映画前半ではそれなりに楽しげなゲイライフを開陳していた彼らが、暗黙のルール外から飛来してきた社会的な普通に怯え、仮面の裏側に隠していた傷や痛みを思い出し、仲間同士でそれをえぐり、開き、壮絶に殴り合って首絞め合うなんとも悲しい地獄絵図。
ゲイなどのセクシャルマイノリティにとって、現代よりもはるかに生きづらかったであろうあの時代。けっして寛容ではない世界の生きづらさのなかで、本当の自分を殺し、なんとか社会と折り合いをつけてやり過ごしてきた彼らが忘れてしまいたかった孤独感。
楽しかったはずのパーティの場で、あえて各人にその現実を思い出させるような攻撃性をむき出しにしたマイケルの暴走。観ているこっちも縮み上がりそうな彼の追い込み詰め寄りフェイスの裏側に隠された深層が判明したとき、この映画の闇はさらに深まっていきます。
他傷による自傷
マイケルがパーティの余興としてなかば強引に始めた真実の電話ゲーム。人生で心から愛した相手に電話をするというゲームによって、それぞれの秘められた過去や傷や孤独を無理から表面化させ、それと向き合わせようとするマイケルは、ついにアランへと詰め寄ります。
それは彼がクローゼットに隠れたゲイだと確信していたからであり、その事実を白日の下にさらすのが狙いでしたが、その目論見はもろくも崩れ去ります。そして皮肉なことにこれによって暴き出されたのが、マイケル自身の罪悪感であり、逃避であり、恐怖だったのです。
真実を偽り、恐れ、罪悪感からそれを認めることができなかったのはマイケル自身のほうだった。彼のむき出しの攻撃性は他傷行為のようでいて実は自傷行為そのものだった。その事実を突きつけられたマイケルがラストで見せる自我崩壊は本当に見るのもつらい。
最後、薬によってなんとか落ち着きを取り戻したマイケルはミサへと向かいます。しかし考えてみてください、カトリックは同性愛を認めていませんよ!なんちゅう救いのない終わり方!それでも自分が帰属している寛容ではない社会へと帰っていかなければならない現実。
ああ~やっぱりフリードキンは最初からフリードキンだったんだなぁ、と思った次第。まったく登場人物に容赦がない徹底して乾いたリアリストです。彼のファンなら抑えておくべき作品だとは思いますが、鑑賞後の疲労感と落ち込み加減は半端ないのでどうぞご注意のほどを。
個人的評価:6/10点
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