犯され、殺され、打ち捨てられた少女。無知な可憐さと無邪気な残酷さ、そして無垢な傲慢さを有する少女はただそれだけで罪なのだろうか?神様!答えてください!
作品情報
『処女の泉』
Jungfrukällan/The Virgin Spring
- 1960年/スウェーデン/89分
- 監督:イングマール・ベルイマン
- 脚本:ウルラ・イザクソン
- 撮影:スヴェン・ニクヴィスト
- 音楽:エリック・ノードグレン
- 出演:マックス・フォン・シドー/ビルギッタ・ヴァルベルイ/グンネル・リンドブロム/ビルギッタ・ペテルソン
予告編動画
解説
中世のスウェーデンを舞台に、愛するひとり娘を凌辱の果てに殺された父親の復讐と、沈黙し続ける神への問いかけを描いた宗教映画です。カンヌ国際映画祭特別賞受賞、アカデミー外国語映画賞受賞に続き、キネマ旬報の外国映画ベストテンでも第1位に選出されました。
監督は『第七の封印』『野いちご』の名匠イングマール・ベルイマン。主演はベルイマン映画の常連である『エクソシスト』のマックス・フォン・シドー。共演に『刑事マルティン・ベック』のビルギッタ・ヴァルベルイ、『沈黙』のグンネル・リンドブロム、『魔術師』のビルギッタ・ペテルソンなど。
感想と評価/ネタバレ有
およそ20年前、一介のホラー小僧であった十代後半のボクが迂闊にも手を出し、「わけわかんね!つまんね!」と恐れ多くも唾棄してしまった歴史的名作『処女の泉』。無駄に年齢だけは重ね、中年へと差し掛かったいま観たらどう感じ、どう思うのだろうか?
てなわけで20年ぶりに再鑑賞してみました。その結果はボクの無益な20年の歳月を思い知らされる、さっぱりこってりわからんという当時と同じ感想へと至ったわけですが、不思議とつまらないとは思いませんでした。これは成長なのか?それとも頭のネジがゆるんでおるのか?
汚された無垢な魂
16世紀のスウェーデン。裕福な地主であるテーレは敬虔なキリスト教徒で、ひとり娘のカーリンに教会へロウソクを届けるよう命じる。しかし彼女のお供をすることになった召使いのインゲリは異教の神オーディンを信奉しており、ひそかにカーリンを呪詛していたのだった。
道中、インゲリと離れひとりで教会へと赴くことになったカーリンは、貧しい羊飼いの三兄弟と出会い、彼らに同情して施しを与えるのだったが、そんな彼女に兄弟たちは襲いかかる。その光景を、物陰から嫉妬と後悔と、恐怖のまなざしで見つめるインゲリの目が……。
無垢な少女がレイプ被害の末に惨殺されるという本作は、公開当時そうとうな物議をかもした模様。確かにこのシーンにおけるセリフ皆無の凌辱劇は目を背けたくなる迫真性があり、その衝撃は現代においても強力です。視線、動作、顔にかかる枝の影が強烈です。
犯され、殺され、無残にも身ぐるみはがされ打ち捨てられた少女の死体。降り注ぐ雪のなか、枝の隙間からそれを覗き見る背徳的なエロティシズム。その尋常ではない美と恐怖と罪を強制的に目撃させられてしまった、三兄弟の末っ子が見せるあまりにリアルなゲロ描写。
神とはその状況を正確に認識できない無垢な存在にも罪と罰を強いるものなのでしょうか?神を信じる者に下された罰。神を認識しない者が背負わされた罪。そして、異教の神を信じる者が抱える嫉妬と理不尽と恐怖と後悔。インゲリの呪いの目力はそれらすべてを含んでいます。
神の頓珍漢
敬虔なキリスト教徒と、はなから信仰心をもたない者と、異教の神を信じる者。これら三つの層が重なり合う地点で生じたあまりに理不尽な現実を、寓意的に描いたのが本作『処女の泉』なのでしょう。要するに本当は残酷な昔話、童話、伝承のたぐいです。
ゆえに復讐心から三兄弟すべてをたたっ殺し、娘の亡骸があった場所で神への恨み節と信仰心を語る父親の魂の叫びにこたえ、ジャボジャボ泉が湧き出てくるというラストはご都合的でもなんでもなく、必然的結末へときちんと至った寓話的シンボルなのだと思います。
ただまあこのシンボルに素直に感動、感銘、悔い改める現代の日本人がどれだけいるかは疑問ですけどね。だいたいテーレは「ここにでっかい教会を建てる!」と宣言したわけで、別に泉を湧かせろとは頼んでいないのだから、この神の反応自体が理不尽さの象徴のような気も。
神の沈黙と不在を呪ったテーレの恨み節と、それでもすがる信仰心に、頼んでもいない湧き出る泉で即答した神の頓珍漢。これは神からの返答でも救済でもなく、本質的には誰ひとりとして救われていないのでは?なんて勘ぐってしまうのは不信心のなせる業でしょうか。
理不尽な現実
おそらくは黒澤明の『羅生門』を下敷きに、すべての人間の罪と罰、そして救いを寓話的に描いた『処女の泉』。無知なボクにはこの映画を宗教的視点で解説することはできませんし、理解もできませんが、それを描くためのあまりに理不尽な現実描写には胸が締めつけられます。
神を信じる無垢な存在にも平等に降りかかる悪意。持たざる者がすがり、恨み、呪い、そして恐怖する異教の神。ただ目撃だけを理由に強制的に科せられる罪と罰。信仰を超える復讐心によってそれを冷徹に実行する一線。この災厄と葛藤と実行のドラマのリアルさたるや。
その痛ましさはカーリンを凌辱、殺害する三兄弟の長兄と次男にも言えることで、誤解を恐れずに言ってしまうと、彼らの行動すらこの理不尽な現実という歯車のパーツにすぎず、どこか哀れさが漂っているように思えるのです。もしかしたら自由意志ではないかもしれませんし。
その裏側にはもしかするとキリスト教と異教の神との対決があるのかもしれませんが、結果はキリスト教の全面勝利。ただ信じる者は救われるのかと言ったらそう単純な話でもなく、彼らはその後も罪を背負い、罰を受け、それでも信仰心を捨てずに生きていくのでしょうね。
いつの世でも神と人はすれ違い。これは一種の恋愛関係みたいなもんだと言ったら、神を信じる人たちに怒られちゃうでしょうか?
個人的評価:6/10点
コメント
こんにちは。
川辺の死体のヴィジュアルの完璧さ!もうそれだけで好きな映画です。
私は素直に泉が湧いたのは神の応答だと思っています。ご指摘の通り頓珍漢なようにも思えますが、奇跡は奇跡です。神の反応があった、それだけで十分だと思うかどうかが感想の分かれ道かもしれませんね。
作中の全員が、この一連の出来事は自分のせいだというような主旨の発言をするのに対するテーレの「神様だけがご存知だ」という回答は模範的なようでいて、神への問いかけのように思います。「教会を立てる!」もそれに同じ。生木との格闘もそれの象徴のような気がします。
そこに反応があったのなら、十分にそれは救いのように思います。この悲惨すべてが神の思し召しでもなんでもないハエの染みだったら、それこそ恐怖ですから。
長文失礼しました。
マーフィさん、コメントありがとうございます!
いやもうおっしゃるとおり、あの悲しくも美しい死体のビジュアルの完璧さだけで凄い映画です!ラストでついに沈黙を破った神の応答ですが、あれをどうとらえるかにやはり人間性が問われておるのではなかろうかと?ボクのようにその応答にすら懐疑的な視線を送る輩にとっては、やはり「神は死んだ」のでしょうね。たとえばあの頓珍漢な応答が「私は見ている」という神の存在主張なのだとすると、「見ているだけってのはいっちゃん質が悪いぞ!」などと思ってしまう次第。詰まるところ、応答しない、沈黙し続けることこそが神の最大の存在主張なのではなかろうかと?スコセッシ版の『沈黙』もこの点が気になりました。
話は変わりますが、マーフィさんと時を同じくしてこの『処女の泉』の感想記事にコメントを寄せてくれた匿名さんがいらっしゃったのですが、「黙れ死ねこのクソオスが!気持ち悪い●×▲野郎が!」という励ましの内容であり、おそらくはレイプ犯である兄弟に同情を示した文言を容認ととらえたと思われ、これもひとつの意見とぜひ掲載したかったのですが、コメント内にNGワードが含まれていたので泣く泣く不承認となりました。ボクって意外といい奴なんだけどいっつも誤解されちゃうんです(笑)。
笑ってしまいました、すみません。その感想も出来れば読んでみたかったですね。
私はスパイクさんのこといい人だと思っていますよ(笑)。
『ブレードランナー2049』の冒頭にも「奇跡を見たことがないからだ」と言い放つシーンがありましたね。
同監督作の『第七の封印』でも奇跡を見ることは大きなテーマになっていましたし、「奇跡を(実際に)見る」ということの感覚はキリスト教圏の人間ではない自分には本当にはわからないのかなあと思ったりもします。
再度のコメント失礼しました。
マーフィさん、再度のコメントありがとうございます!
ボクはけっこうたまに来る批判的なコメントも普通に承認する心のでっかい人間なのですが、残念ながら今回のコメントにはブログにのっけられないNGワードの罵詈雑言でしたので、断腸の思いで削除いたしました(笑)。でも気持ちはわかるのですよ。たぶんボクがレイプを擁護したと誤解したのでしょう。誤解されやすいタイプでして。おっしゃるとおりけっこういい人なんですけどね(笑)。
『ブレードランナー 2049』でもありましたね。奇跡への言及。彼が見たという奇跡の実態。あれは結局のところ意図的に仕組まれた奇跡なのか?それとも本当の奇跡なのか?たとえ仕組まれたものであれ、それが実現化するためには何かしらの見えない力が必要だとしか思えず、ボクはそれを「愛」だと書きましたが、やはり奇跡を見てそれをどうとらえるかは見る人に委ねられている部分が大きいのでしょうね。信じるか信じないかはあなた次第!
ところでレプリカントにとっての神ってどういう存在なんでしょうね?創造主ってことで言えば人間が神ですし。それとも人間と同じ神の存在を信じているのか?あるいは彼らの概念のなかで生まれた神がいるのか?鑑賞時に疑問に思ったことがまたむくむくと頭をもたげてきました。