一見すると幸福そうな家族のもとに現れた異物としての少年。異物が与え、奪い、あぶり出すものとはいったいなんなのか?解説?解釈?考察?んなもんはほかをあたってくれい!
作品情報
聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア
- 原題:The Killing of a Sacred Deer
- 製作:2017年/イギリス、アイルランド、アメリカ/121分/PG12
- 監督:ヨルゴス・ランティモス
- 脚本:ヨルゴス・ランティモス/エフティミス・フィリップ
- 撮影:ティオミス・バカタキス
- 出演:コリン・ファレル/ニコール・キッドマン/バリー・コーガン/ラフィー・キャシディ/サニー・スリッチ
参考 聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア – Wikipedia
予告編動画
解説
傲慢な心臓外科医のもとに現れた謎の少年。彼の登場をきっかけに医者の家族は不可解な奇病へと侵され、理不尽な選択を迫られるというサイコスリラーです。
監督はギリシャが生んだ奇才『籠の中の乙女』『ロブスター』のヨルゴス・ランティモス。第70回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、惜しくもパルム・ドールは『ザ・スクエア 思いやりの聖域』にかっさらわれましたが、見事に脚本賞を受賞。
主演は『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』のコリン・ファレル。共演に『ダンケルク』のバリー・コーガン、『アクアマン』のニコール・キッドマン、『トゥモローランド』のラフィー・キャシディ、『ルイスと不思議の時計』のサニー・スリッチなど。
感想と評価/ネタバレ有
『15時17分、パリ行き』『シェイプ・オブ・ウォーター』『ブラックパンサー』『ダウンサイズ』『ハッピーエンド』などが並ぶ3月頭の超激戦区において、ボクにとっての大本命だったのが今回紹介させていただく『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』。
『聖なる鹿殺し』という意味不明かつインパクト抜群なパワータイトルにおっさんの乙女心は鷲づかみされてしまったのですが、映画の中身はそれを軽々と越えてくる心臓串刺し一丁あがりで、あまりに不条理かつ不可解な内容におっさんの頭はぐるぐる回ってバター状態に。
バターは高いからこりゃ助かるわ、と自分の脳ミソバターを舐めながら必死にこの映画の深層を覗いてみようと目玉をギョロギョロさせてはみたものの、にごった眼玉は虚空を見つめるばかりでらちが明かず、途方に暮れたままこの感想をしたためている有り様をお許しください。
アウリスのイピゲネイア
美しい妻とふたりの子供に囲まれ、郊外の豪邸で何不自由なく暮らす心臓外科医のスティーブン。しかし彼にはもうひとり、家族には内緒で頻繁に会っている少年マーティンがいた。彼はすでに亡くなったスティーブンの元患者の息子で、何かと無視できない存在だったのだ。
ある日、スティーブンはそんなマーティンを自宅へと招待し、家族に紹介することに。しかしこれを境に、息子のボブ、続いて娘のキムが突然歩けなくなる奇病に侵される。動揺するスティーブンの前に現れたマーティンは、そんな彼に恐ろしい選択を迫ってくるのだった……ってのが簡単なあらすじ。
古代ギリシア悲劇のひとつ『アウリスのイピゲネイア』を基にしていると言われる本作。しかし不勉強がモットーのボクはもちろん知らぬ存ぜぬで、その悲劇の概要としては、「聖なる鹿を殺して女神の怒りを買った父親が娘を生贄に捧げる」というものらしい。
この悲劇の元凶は自分の能力を過信した父親の傲慢にあり、ここから紐解かれる『聖なる鹿殺し』のテーマにいわゆる家父長制の糾弾があったことは確かなように思うのですが、そんな一面的ではない多面的、重層的なテーマがうごめいていたことは明白で、いまだ深層は薮の中。
愛を放つの、消されないように
いきなりガチの心臓のどアップで幕を開ける本作の薄気味悪さは、一見すると幸福そうな家族の肖像、医者と少年との密会、街並み、家、病院、すべてが無機質で生気が感じられず、何も起こっていないのにひたすら不穏な悪魔的ショットの連続にあると言えるでしょう。
フィックスによる長回しが大好物だったランティモスが、今回はけっこうカメラを動かしているのですけど、その速度だったり視点、距離がまあ神と言うよりかは悪魔的で、絶妙というか最悪なタイミングで繰り出されるクラシック劇伴の不穏さも悪魔を調子づかせます。
予告編でも象徴的に使われていたスティーブンの娘キムのアカペラも、美しいのに不安になってくる妙な塩梅で、しかもこの歌詞をつぶさに読んでいくとやはり物語と無関係ではないらしく、最後の「愛を放つの、消されないように」という歌詞にはいま読むと震えがきます。
元歌であるエリー・ゴールディング『Burn』は力強い愛の歌のようですが、それを呪いの歌へと変換したキムを演じるラフィー・キャシディはなんと『トゥモローランド』のアテナちゃん。彼女をこんな映画へと起用して怪しく花開かせたランティモスの眼識恐るべしです。
開かれた薮
何が起こっているのかはわからないが、確かに何かがおかしい不穏さに目と耳、そして心をやられる『聖なる鹿殺し』。何も気づかないうちにじわじわと心臓が開かれていた悪魔の所業。何も起こっていないのに、何もわからないのに本能的に恐怖を感じる映画の静かな破壊力。
そしてついに薮が開かれる。突然歩けなくなる息子のボブ。だがこれは始まりにすぎない。次に食欲が消え失せ、さらには目から血を流し、ついには絶命するのだとスティーブンに告げるマーティン。しかもこれはスティーブン以外の家族全員に起こる正義の裁きなのだと。
それを止めたければ家族の誰かひとりを殺せ。さもなくば全員死ぬのだと。実はマーティンは酒に酔ったスティーブンの執刀によって死亡した患者の息子であり、これは復讐であり、正当な裁きであり、対等な代償なのであると。マーティンよ、貴様いったい何者だ……?
理不尽なルールのなかで右往左往する人間をグロテスクに描いてきたランティモスの真骨頂です。しかもその悪意はさらなる進化を遂げており、彼の狂ったメスは人間の見たくはない、見られたくはない患部を、滑稽で吐き気がするほどの鋭さで大きく切り開いていきます。
薮の先も薮
開かれた薮の先もまた薮。究極の選択を迫られたスティーブンは、正念場においてなんらの決断も下せないニット帽くるくるダンスを露呈し、絶対的支配者たる家父長制の脆弱さを前述したとおり情けないほどにさらけ出します。しかし本当にただそれだけの映画だろうか?
これは家族という最小かつ最大の共同体の欺瞞性を暴き出していたのではないか?思えば最初から父は息子をないがしろにし、母は娘を憎んでいた。「今から後一家に5人あらば3人は2人に、2人は3人に分かれて争わん」なんて『パトレイバー』の受け売りが思い出される。
いやいや、これは命の危機を前にあぶり出される人間の利己性を描いていたのでは?旦那ご推薦の黒いドレスで自らの価値を示す妻。心にもない自己犠牲宣言で自らの美徳を誇る娘。父に嫌われた自慢の長髪をばっさり切り落として従順な犬と化す息子。わんわん。
それら全部ひっくるめて、支配者と被支配者の構図を描き出していたのかもしれない。スティーブンからマーティンへ、そしてふたたびスティーブンへと戻ってきた支配権の前にすがるしかない被支配層の従順。いやしかし、神か悪魔かマーティンかの真意とはいったいなんだ?
『ダンケルク』でチラ見したときから若いくせにいい面構えをしていたバリー・コーガン演じるマーティンの正体不明な薄気味悪さ。常に礼儀正しい彼のフェア精神とはいったいなんなのか?彼が求める失ったものに対する正当な対価とは?命の代償は命で払うべきなのか?
彼の母親はいったいどこに消えた?もしかしたら失った父親の対価としてスティーブンを取り込めたら今回の悲劇は防げたのか?いやいやこれも計画のうちよ。正義に近づいているのは確かよ。正義の手コキよ。むむむ、そういえばなぜアナにだけは症状が現れなかったのか?
ボブが死んだのは必然か?必然だろうね。ではラストのダイナーでの一幕はなんだ?彼らの視線の意味は?ポテトは?この報復の連鎖は続くのか?と、果てしなく続く「?」の連鎖。藪が開けたと思ったらその先はさらに深く暗い薮の中で、出口はいったいどこなのでしょう?
最後の考察というか思いつき
視覚と聴覚を皮切りに、人間の核たる心臓をうすら笑ったグロテスクさで鋭く切り開いてきた悪魔的薮の中映画『聖なる鹿殺し』。解説、解釈、考察と言われましても、脳ミソバターのまま薮の中を徘徊しているボクには無理な話で、そのへんはどうぞほかをあたってください。
ただ薮の中をさまよい歩くのも悪くない話で、現時点での本年度ベスト映画だとご推薦しておきます。脳ミソバターにして迷子になるのがお好きな変態さまには超絶おすすめですので、どうぞ遠出をしてでも鑑賞していただきたい、悪魔的魅力のある映画だと思いますよ。
最後に考察とも言えない思いつきをひとつ。この映画の元ネタとなった『アウリスのイピゲネイア』には後日談があって、娘を生贄に捧げた父親はそののち妻の手によって殺され、その妻も成長した息子によって殺されるというとんでもない家族崩壊劇が繰り広げられた模様。
ここから推察するに、『聖なる鹿殺し』のラストで息子のボブが生贄として死んだのは正解だったのかもしれません。いや必然か。だって次なる支配者として君臨し、報復の連鎖をとめどなく続けていくのはいつの世でも毛むくじゃらの男性性なのですから……。
個人的評価:8/10点
コメント
更新お疲れ様です
せっかく話題作・期待作を多くレビューしてくださっていたにも関わらず、3月の地獄のような忙しさと体調不良のせいでコメントが遅くなり申し訳ありません
さて、私の生涯ベスト次点であるロブスターのランティモス監督最新作ということで、大いに期待して劇場に向かいました
結論から申しますと、本当に最高に最悪!!という感じでしたねw
ロブスターも籠の中の乙女もそうでしたが、絶対に万人受けはしないであろうが、一部の変態にはドストライクにハマるランティモス節は今回も全開でした
うわーお、マジ手加減無しだあ、と一種恍惚とすらしてしまう不安定で不快で不条理な世界
そして、バリー・コーガンの正気なのか狂っているのか判別のつかない不気味さ
実にお見事でした
ただ、今作には個人的に二点不満がありまして、その一つはユーモア不足
過去二作にあった、意地悪でブラック極まるユーモアがほぼ無かったのはちょっと残念でした
もう一つは、ラストはやはりフィックスの長回しで終わって欲しかったかなと
あの終わり方も観客を全く安心させずに終わっていてランティモスらしいとは言えるんですが、朗々と鳴り響くヨハネ受難曲と相まって少しドラマチックに傾きすぎている気がしました
ニット帽くるくるで発砲→帽子を取ったコリン・ファレルのアップ長回しで終わって、誰を撃ったか分からなくさせた方が、より観客を突き放したラストとなったのではないかと
まあ、完全に私個人の好みの話ですし、それを差っ引いても今作が傑作であるという評価は揺るぎませんが
starさん、コメントありがとうございます!
3月は決算期ですのでどこの会社も忙しいですね。かくいうボクも大忙しでなんとかかんとか映画鑑賞、そしてこのくだらない映画ブログ更新の時間を作って、どうにかこうにか正気を保っております。
そんななかで鑑賞したこの『聖なる鹿殺し』。おっしゃるとおり本当に最高かつ最悪で、わけのわからない恐怖と不安のなかで歓喜と恍惚のダンスを踊り狂い、鑑了後には気づくと元気になっておるという謎の勇気をもらった傑作でした。実は前作の『ロブスター』ほどではないなぁという第一印象ではあったのですが、帰りの電車のなかで徐々にその評価は変わっていき、帰宅し、パソコンの前へと座り、いざこの映画の感想を書き出したら『ロブスター』と同等、もしくはそれ以上か!?とまでのうなぎのぼりをしていた事実をお伝えしておきます。
starさんが挙げておられる不満点はボクも同様に感じたのですが、それもこれもすべてランティモスの次なる進化への過程なのかもしれません。彼のフィックス長回しぶった切り演出が大好物でしたので、あれ?今回はけっこうカメラ動かすな、止まらないなぁ、おかしな視点だなぁと思っていたのですが、この微妙に緩慢におかしな視点で動いているカメラもやはり不安に不穏で不可思議で、キューブリックになぞらえて語られているのもなんか納得です。っていうか考えれば考えるほどあのラストがわからない。いろんな解説や考察も読んでみましたがどれもこれもピンとこない。このいまだに解けない不安感こそがこの映画の面白さなのでしょうね。うわ~絶対Blu-ray買うだろうな(笑)。
ps. 投稿名をstarさんに修正しておきました!